諸国の民があなたを称えるように

「神よ、諸国の民があなたを称え、全ての民があなたを称えるように」(詩編67:3)

 

 この間、大学や小学校、病院といった施設についているチャペルでの礼拝において、未信徒が多く参列する典礼はあまり華美にしないほうが良い、という考えがあると耳にした。私には理解できなかった。しかし、こういった考えを持った人々は言う。キリスト教をよく知らない人たちに対してキリスト教の礼拝をやるとき、あんまり華美ではないほうが無難であると。これに対して私は言う。そんな大学の講義や会社の会議と何ら変わらないような儀式をやっても、誰もキリスト教に魅力を感じないし信仰を持たない。そもそもキリスト教への偏見を気にするのなら、むしろ「宗教」としての儀式性を重視し、考え方は違えども仏教や神道と似た性質があると感じられた方がよいではないか。それに対して返ってくる答えはこうである。宣教、というけれども、宣教とは人をクリスチャンにすることではない。宣教とは、環境問題や経済格差、男女不平等といった社会的なissueに対して教会が取り組み、答えを出していくことである。一切理解ができなかった。そこに「宗教」である必要性がてんで見出せなかった。

 冒頭に示した詩編67編の3節のフレーズは、詩編の中では決して珍しい類の言葉ではない。しかし、私はこの一節に、イスラエルの人々の切実な願いを感じ取る。ただ「私たちはあなたのみ名を賛美します」に留まるのではなく、諸国の民が、すべての民があなたを称えるように、なのが私にとって重要である。神の栄光が全地に及ぶことを望み、神の国の繁栄を願う一節と読み取れる。決して個人のご利益的な幸せを願うのではない。むしろ、自分ではなく相手(ここでは神だが)の幸せを思う、philiaがここにはある。ギリシアの神々が賛美される時代を生きたアリストテレスは、住む世界が違いすぎるので神と人間の間にフィリアは存在しないと述べた。しかし、キリスト教では違う。なぜならば、神の子キリストに対し、教会はその花嫁であるからである。花嫁が花婿の幸せを願うこと、これは婚姻において不可欠な友愛である。

 であるとすれば、先述の宣教に関する理解は好ましくないのではないだろうか。ここには決して、「諸国の民が神を称える」ことへの願いは込められていない。確かに大航海時代の植民地における宣教の在り方が現代において相応しいものではない、ということには私も賛成である。重要なのは形式として「キリスト教徒になること」ではない。しかしいつの時代にも変わらないこと、それは信仰を持つことである。そのためには、教会は未信徒に囲まれていようとも、躊躇せずに神のみ言葉を伝えなければならない。聖書と説教、これは確かに必要である。しかし、これに加えてキリスト教の美的な典礼も、宣教という点にあってはとてもよく役割を果たすことも忘れてはならない。祭具や祭服には、一つ一つ象徴的な意味が込められており、教会が大切に育んできた伝統がそこに顕現するのである。そして何より、いかなる場においても花婿が賛美されるとき、花嫁は美しく着飾ることによってその喜びを表現するのは善いことである。

 聖ドミニコの母は、ドミニコを胎内に宿した時、自分のお腹から犬が飛び出し、犬が松明をくわえて全世界に火を放つ夢を見たと言われている。また、イタリアのサン・ティニャツィオ(聖イグナティウス)教会の天井画、《聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光》では、ロヨラがイエスから聖なる光を受け、その光が全地に及んでいる。これらがインスピレーションを受けているのは、次の聖書のみ言葉からである。

「私が地上に来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ12:49)

ここに癒しを読み取ることはできない。そして続くみ言葉の中では平和ではなくむしろ分裂をもたらすために来た」と言っている。イエスの行いは、癒しが全てではない。近年では解放の神学などの影響でけが人や病人を癒す場面が着目されがちであるが、その一方でイエスの言動には厳しさもある。イエスが山上の説教で述べたように、私たちは世の光であり、その光を輝かさなければいけない。そしてその輝きは、道標であると同時に、全地を包む火として放たれなければいけないのである。その意味で、キリスト教徒の少ない場所での礼拝では無難な典礼を、などという優しさは必要ない。むしろ、それは優しさではなく「ヌルさ」である。