聖書の読み方

 最近、「熱心なクリスチャンだ」という割には聖書を読めていない人が多い気がする。実際、教会に行かないと聖書を開かない人が多い。しかし、ここで言いたいのはそういう話ではない。彼らには、ミサに与る前に聖書日課になる箇所を読んでから行け、というだけの話だからである。ここで問題にしたいのは、聖書は開くものの正しい読み方が出来ていない人たちである。

 ここで悲しい現実をお伝えしよう。聖書は本来、世界中の人たちが理解できるようには書かれていない。聖霊に導かれて聖書を記した人々は、この聖なる教えを異教徒や邪な考えを持った人々には知られないように、信者にしか本当の意味が分からない暗号をふんだんに用いている。聖書の表現が簡単そうに見えて今一つ掴みどころがないのもこれが理由。暗号が使われているから、礼拝では説教があり、この2000年間で多くの神学者が註解書を書いている。昔の人は、信者になる時に初めて、司祭について教理を学習し、聖書の暗号の解き明かしを受けていた。それゆえ、初老の渋い男性が書斎でコーヒーを飲みながら小説を読むようには聖書は読めない。神学書を片手に置いたり、印象的な単語に線を引いてその寓意を調べたり、新約と旧約を交互に見比べたり、といったより頭を使ったように読む必要があるのだ。

 ギリシア教父の一人、オリゲネスの聖書の比喩的解釈は、遥か昔のものでありながら、現代を生きる私たちが聖書を勉強するときも非常に有用である。オリゲネスは聖霊の従属説を唱えたため、死後は異端とされて多くの著作が廃棄されたものの、比喩的解釈はアウグスティヌスに受け継がれ、中世以降まで続いている。オリゲネスは字義的解釈、倫理的解釈(教訓のようなものと思えばよし)、神秘的解釈という三つの解釈があるとしている。ちなみに、アウグスティヌスは救済論的解釈と神秘的解釈をさらにわけて理解している。比喩的解釈のためには、聖書内に出てくる単語が意味するものを理解する必要がある。また、旧約と新約両方に目を通すことも必要となる。そのため、一つの短い章を読むとしても何度も何度も舐めまわすように読まなければならない。よく、「この時イエスはどんな気持ちだったのか」「律法学者たちはどう思ったのか」などを永遠と議論していることがあるが、これではいまだに字義的な解釈を抜け出せない。いつまでも共通テストの現代文のようなことをやっていても、知識も信仰も強まらないのである。例えば、「種」といったら何を指すのか、ここでは「み言葉」であったり、少しでも「園」という言葉が出てきたら、まず私たちの世界にある果樹園を想像してから、すぐに「エデンの園」のたとえであることに敏感に気付く、といったような「聖書脳」を作っていくとよい。

 勘のいいひとはわかったかもしれないが、オリゲネスやアウグスティヌスの聖書解釈の背景には新プラトン主義がある。アウグスティヌスは愛の博士Doctor Caritasと言われているのだから当然である。私たちは聖書を通してもまた、肉体的な次元を超え、一、善、美である神との合一を目指していきたい。聖書はそのガイドブックと思えばよい。

 

あなたのみことばの深さはまことに驚くべきものです。表面だけを見れば、じっさい子どもだましのように思われます。しかしその深さは素晴らしい!神よ、まったく素晴らしい!(アウグスティヌス『告白』第12巻第14章冒頭より)