「多様性系ファシズム」問題を考える〜トマス・アクィナスの「法論」の視点から〜

  「結局、法って何なんですか?」こんな問いが、この前の連続テレビ小説の中で投げかけられていた。法とは何か、これは法学を学ぶものに限らず、誰でも一生かけて考えられるテーマであろう。しかしトマス・アクィナスの『神学大全』の中で、法論を読んでいくと、「私ならこう答えるかな」と言えるようなヒントは見つかった。

  まず、人間的行為の第一の根源は理性である。これはアリストテレス倫理学でも言われていることである。そして法lexは規則、拘束という性質を持っており、規則は第一の根源に属するので、法は理性に属している。そして、人間的活動の究極目的は共同体の共通善なのだから、法は共通善に秩序づけられている。また、法は為政者によって施行されることによって効力を持っていなければいけないとも述べられている。法の本質における、トマスのこのような考え方を通し、私は、法は人間の理性に基づかなければならず、また万人が幸福になり、その時、その場所において有効であるものなのではないかと考えた。

  昨日、学校において社会化するべきか、個性化するべきかというテーマについての議論があった。社会で生きていくために、規則を守るということは個性を出すことより必要な教育であるという意見がある。その一方で、モラトリアムの時期に個性を育んでいくことが必要だという意見もある。結局、バランスが重要なのは言うまでもない。しかし、規則を逸脱するような個性は個性ではなく、「変わっている人」にしかなり得ない。その集団の規則が気に入らない、例えば学校や会社の髪色についての規定が気に食わないなどと感じる人もいるようだが、そういった「法」は、聖トマス・アクィナスに基づけばその共同体全体の善のため、つまりそこに属する全員の幸福のために制定され、適切に有効なものなのだから守るべきである。

  近年、「多様性の時代」という言葉をよく耳にする。しかし、多様性を重視するために規則や秩序を軽んじる人が増えてきているのではないかと思う。多様性と称して、自分の要求を全て受け入れるようにさせる姿勢は非常に自己中心的である。多様性より秩序、いや、「秩序を乱さない範囲での多様性」こそが現代の私たちが追求していくべきモノであり、市民社会に限らず教会社会においても同様ではないだろうか。