「掟」の意味〜法は私たちの足枷なのか?〜

  復活節も終わりに差し掛かってきた。実に寂しいことに。教会の典礼色で年間最も使われるのは緑色である。教会の喜びを表す白は、一部の祝日にのみ使われる、少々イレギュラーなものとして扱われることが多い。しかし、このイレギュラーなお祝い用のチャリスベールを毎日使える、そんな一年で一番華やかで楽しい季節が復活節である。というわけで、この復活節の終盤は、各週ごとに黙想し、そこで想ったこと・考えたことをここに綴り、一大シリーズとしたい。

  ヨハネによる福音書も、他の福音書と同じく、イエスが人を癒したり、生き返らせたり、様々な「行い」を描いている。しかし、14章からは一転してイエスと弟子たちの「対話」が中心になる。これは、私にプラトンの対話篇を思い起こさせる。実際、ロゴスとの対話として、プラトンの成就ととることもできるが。そして、この対話の中で「掟」が頻繁に登場する。私の考えでしかないが、ここからが新約聖書の本番なのではないだろうか。新約、は文字通り新しい約束という意味だが、私はドラマでするように、このタイトルはどこで回収されるのか、と読むのである。一方で、旧約、つまり旧い約束はモーセを通し、シナイ山で授かる十戒となる。ではこの旧約と新約はどのような関係にあるのだろうか?

   旧約の法、つまり律法は、パウロによって否定されたように見える。罪は律法から来る、とローマの信徒への手紙で言われていることから、律法は悪いものだったのか?新約の法「掟」とはそれを修正するものなのか?クリスチャンの間でも旧約聖書への距離感は遠のいてしまいがちなのだ。直接キリストを描くわけではないから仕方ないのかもしれない。何となくあれはどちらかといえばユダヤ教のものじゃない?という認識もある。しかし、キリスト教では、アダムの堕落以降、神は段階的に人類を救うことを計画してきている。私たちの最終的なゴールは、「楽園の回復」なのだ。アダムは楽園にある「掟」を破ってしまったが、これを守ることこそは楽園での生活に必要不可欠なものだった。これを取り戻すため、時代の流れの中で掟が与えられる。その第一の段階が「十戒」であった。この十戒では、主に私たちの日頃の行いについて言及されており、神への忠実さや情欲に対する節制など人間としての「徳」が求められる。しかし時代が進むにつれ、掟を守る意識は薄れ、異教の神々に対する偶像崇拝が横行する。そしてイエスの時代、ユダヤ教の律法学者たちはこの法を大事にするが、隣人に愛を持って接することを忘れてしまっていることが見受けられる。ある意味で、律法を授けた神の意思を無視し、律法の文面を絶対視する、ある種の偶像崇拝となってしまったのだ。イエス安息日に障害のある人を癒す行いや「善きサマリア人」の喩えによってこの風潮を批判する。そしてこの極致が新しい掟「新約の法」である。次回詳しく述べることになるが、この掟とは「イエスを信じる」こと、「互いに愛し合う」こと、そして「ヒトツニナル」こと。トマス・アクィナスによれば、新約の法は恩寵によって与えられている。そもそもイエスがこの世に来たこと自体、神がこの世界の人々を愛し、「えらび」という意味での恩寵を注いでいることにほかならない。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3:16) 

 

  人は一種類しかいないながら、時系列的な分類では若者や老人といったように分けられる。同じように、神法もまた、神が一人であるように、一つでありながら時間の流れという意味では旧約と新約の二種類となる。旧約によって救いが準備され、ロゴスの受肉によってそれは完成され、一つの神による法となる。そして、新約が恩寵ならば、行動に多く言及する旧約は自由意志を人々に教える。こうしてクレルヴォーのベルナールが説く、救いの起源とそれによって救われるところのものが合わさり完全となる。一見、「〜しなさい」という法は私たちの行動を縛り付ける足枷のようである。しかし、神の恩寵によって完成されるところのものは、ベルナールが言うように、むしろ私たちを悲惨さからの自由、つまり「楽園の回復」という名のゴールへと導くのだ。