命の春

  春になると、景色は色鮮やかになる。少し前は白や茶色しかみえなかったのに、周囲には緑や、赤、黄色、様々な色が現れる。地面の穴からは眠っていた動物たちが起きてきて、木々へ目を凝らすと鳥たちの歌声が聞こえるようになる。冬から春への移り変わりは、私には静から動への変化とも受け取れる。

 私の父は、東北地方の出身である。東北の冬はとても寒さが厳しいので、他のどの地方よりも、春の訪れは喜んで迎えられるという。それゆえか、父は桜をとてもよく見に行きたがる。この傾向は、ヨーロッパにおいてもよく見られる。実のところ、キリスト教は「寒い国の宗教」なのである。それが発展した場所を思い浮かべてほしい。イギリス、ドイツ、北イタリアなどなど。確かに夏になれば暖かい国もあるかもしれないが、こうした地域での冬はとても厳しい。聖職者や侍者は、自分たちの服を暑いと言っていて、夏になると礼拝でたくさんの汗をかくものだが、冬のヨーロッパに行けばキャソックやチャジブルは、宗教的な意味合い抜きにしてもないと困るものなのかもしれない。このような寒い冬が終わり、優しい春風が吹きそよぎ、白い雪に覆われていた地面が緑や、色とりどりの花々に覆われていく春の訪れに、中世ヨーロッパの人々はただならぬ思いを感じていたのではないだろうか。主イエスの降誕や復活はいつだったのか、それは聖書には明確な記載はない。今一般的なキリスト教関連のお祭りというのが、宣教地の土着の宗教であったり、ローマ神話の神々に関するお祭りであったことは歴史研究の成果などで知られている。そうであるからこそ、中世の人々にとって、イースターの喜びは春の訪れへの喜びと重なるものだったのではないだろうかと私は考える。春の訪れとともに冬眠していた動物が出てきて野原を走り回り、シンと静まり返っていたのから一変して鳥たちの歌声が聞こえる様子はまさに「命の春」。眠っていたものたちが再び立ち上がり、キリストの復活とともに全てが新たに造りかえられたようだ。アメリカのヘンリー=デイヴッド=ソローも、『ウォールデン』最終章にて春の喜びを語っている。ソロー自身が「森の生活」を送っている場所の近くにはウォールデン湖があり、季節ごとの変化の様子が語られるが、灰色の氷から透明な水面になり、そして周囲では久方ぶりにコマドリの力強い歌声が聞こえていることを喜んでいる。中世ヨーロッパにおける春の喜びは、19世紀のアメリカにも存在したのだ!実際、彼は春の到来した森の風景を、人が罪もなく平和に暮らしたオウィディウスの言う「黄金時代」に例えている。「すがすがしい春の朝には、全ての人間の罪が許される。」ソローのこの言葉を聞いた時、主イエスの復活した春の朝を思い浮かべない人がどこにいるだろうか!ある春の朝に、香油を持った婦人たちは墓へ行き、そこにイエスがいないことを知る。すると、み使いが復活を知らせる。これによって、全ての人に赦しが伝えられるのだ。さらにソローは、川や湖に太陽の光が注がれるのを見て、不死について思いをはせ、そこでパウロ書簡が引用されている。

 

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(コリントの信徒への手紙1:55‐56)

 

私たちはもはや死を恐れない。なぜなら、キリストは既に死と罪の古い力に勝利を示しているのだから。

 これらは全て、私が父に無理やり連れていかれた花見の中で想ったことである。前は枝だけの寂しい姿だったのに、薄ピンク色の花をつけ始めているのを見ると、命の春を感じる。そして、夏ごろになると、花が散り、代わりに緑の葉が生い茂る。桜の花はよく見ると限りなく白に近いのだが、白から緑へと変わるのは、典礼色が緑に変わる時期とほぼ一致している。だから、おもしろいことに、私は桜を見るたびに、教会生活への想いを強くする。しかしまた、私たちは白と緑の季節だけでなく、赤の季節も忘れてはいけない。私は、この復活節にあっても、その前の聖週を思い出し、受難によって体現された無限の愛を心に刻む。

 

はじめに黄金時代ありき。懲罰者なく掟なく、おのずからなる忠誠と、正しき心のみありぬ。(中略)そはとこしえの春にして、いとおだやかなる西風は、なまあたたかき微風もて、種なく生れし花々を慰むるとぞ。(オウィディウス『変身物語』第一歌)

十字架のチカラ

  聖餐式の中で、懺悔や平和の挨拶といった聖餐準備に入る部分は、正直いってあまりおもしろくない。音楽はないし、そんなにカッコイイ動きがあるわけでもない。しかしこの一見あってもなくてもいいようなものが、実は大切な役割を担っている。キリスト教ではよくあることで、まさに「隅の親石」といえる。私の敬愛する司祭は、ことあるごとに懺悔と平和の挨拶の必要性について述べており、その表現が非常におもしろいので紹介する。共同懺悔は神との関係の修復で、平和の挨拶は兄弟である信徒同士の関係の修復である。つまり、このふたつは十字架の縦と横の関係を作るのだ、と師は言う。

 愛には、強さがある。そして速さがある。また、愛は精密で、美しい。サン=ティエリのギヨームは、『愛の本性と尊厳』の冒頭で、「技芸の中の技芸、それは愛の技芸である」と述べている。神がその被造物に対し、そして人が神や隣人に対し、愛をもってなす業はいかなる芸術に勝って美しいのだ。さらに、ギヨームは「愛には本性的な重さがあり、魂を固有な場所、目的地へ運んでいく力である」と説明する。リンゴを手から落とすと真っ逆さまに地面に向かうように、水が上から下に流れるように、物理学的に言えば愛は天へと上昇する「重力」なのであると考えることができる。先述の十字架の縦と横の線に付け加えるならば、十字架こそが「愛のカタチ」である。イエスご自身が、自ら進んで引き受けられた犠牲は、よりにもよって十字架であった。洗礼者ヨハネのような斬首でもない。闘技場で猛獣のえさとなるのでもなかった。最も苦しい十字架の死。これはローマ帝国の法律では、ローマ市民権のない大罪人に対する極刑であり、イスラエルの人々にとっては恐ろしい存在だった。しかし、イエスの犠牲の後、この十字架は、処罰の象徴ではなく、愛と赦しの象徴となった。もはや恐怖し、遠ざけるべきものではなく、私たちの欲求の対象であり、身につける者となったのだ。トマス・ア・ケンピスは、「十字架を担いなさい。あなたが担えば、十字架があなたを担い、目的地へ連れて行ってくれるでしょう。」という教えを説いている。これは、先述のギヨームの教説とつながることに気付かないだろうか。愛、を十字架に置き換えればよいのである。すると、私たちは十字架の愛こそが世界を動かすエンジンであることがわかるだろう。トマスはキリストに倣うために十字架を背負うことを主張しているが、これはあまりに直接的すぎると批判したくなる人もいるだろう。しかし、実際は的を得ているのではないだろうか。自分は一切罪の穢れがないのにそれを背負い、生贄としてゴルゴタの丘へと登っていった姿は、私たちが目指すべき人間の在り方である。私たちも、他人を責めるのではなく、寛容さをもって接し、威張るのではなくへりくだり、自分より他人を優先したい。イエスの目的地であったゴルゴタの丘、これも逆説的にエデンの園の類型である。丘や山といった場所は、標高が高いので天国に近い場所として霊的な意味付けがなされてきた。エデンの園は、聖書でも山のような高いところだとされ、ダンテの神曲でも煉獄山の頂上として描写されている。ゴルゴタの丘は、キリストの犠牲によって最も愛と謙遜に満ちた、神の理想的な世界となった。十字架はこの祝福された楽園へのチケットであり、「送迎バス」だとみなすことができる。

 この数週間は、私たちは主イエス・キリストの復活を喜び歌っている。主イエスは葬られた後、地獄のリンボへと降って行った。そこにいた旧約の聖なる人々を手や足で掴み、驚くべきスピードで地上に昇って復活し、最後には「昇天」していく。この地獄から天国へと「跳び上がる」強さは、決して体操選手のような強さではない。十字架のチカラというエンジンの強さなのである。アレルヤ

聖書の読み方

 最近、「熱心なクリスチャンだ」という割には聖書を読めていない人が多い気がする。実際、教会に行かないと聖書を開かない人が多い。しかし、ここで言いたいのはそういう話ではない。彼らには、ミサに与る前に聖書日課になる箇所を読んでから行け、というだけの話だからである。ここで問題にしたいのは、聖書は開くものの正しい読み方が出来ていない人たちである。

 ここで悲しい現実をお伝えしよう。聖書は本来、世界中の人たちが理解できるようには書かれていない。聖霊に導かれて聖書を記した人々は、この聖なる教えを異教徒や邪な考えを持った人々には知られないように、信者にしか本当の意味が分からない暗号をふんだんに用いている。聖書の表現が簡単そうに見えて今一つ掴みどころがないのもこれが理由。暗号が使われているから、礼拝では説教があり、この2000年間で多くの神学者が註解書を書いている。昔の人は、信者になる時に初めて、司祭について教理を学習し、聖書の暗号の解き明かしを受けていた。それゆえ、初老の渋い男性が書斎でコーヒーを飲みながら小説を読むようには聖書は読めない。神学書を片手に置いたり、印象的な単語に線を引いてその寓意を調べたり、新約と旧約を交互に見比べたり、といったより頭を使ったように読む必要があるのだ。

 ギリシア教父の一人、オリゲネスの聖書の比喩的解釈は、遥か昔のものでありながら、現代を生きる私たちが聖書を勉強するときも非常に有用である。オリゲネスは聖霊の従属説を唱えたため、死後は異端とされて多くの著作が廃棄されたものの、比喩的解釈はアウグスティヌスに受け継がれ、中世以降まで続いている。オリゲネスは字義的解釈、倫理的解釈(教訓のようなものと思えばよし)、神秘的解釈という三つの解釈があるとしている。ちなみに、アウグスティヌスは救済論的解釈と神秘的解釈をさらにわけて理解している。比喩的解釈のためには、聖書内に出てくる単語が意味するものを理解する必要がある。また、旧約と新約両方に目を通すことも必要となる。そのため、一つの短い章を読むとしても何度も何度も舐めまわすように読まなければならない。よく、「この時イエスはどんな気持ちだったのか」「律法学者たちはどう思ったのか」などを永遠と議論していることがあるが、これではいまだに字義的な解釈を抜け出せない。いつまでも共通テストの現代文のようなことをやっていても、知識も信仰も強まらないのである。例えば、「種」といったら何を指すのか、ここでは「み言葉」であったり、少しでも「園」という言葉が出てきたら、まず私たちの世界にある果樹園を想像してから、すぐに「エデンの園」のたとえであることに敏感に気付く、といったような「聖書脳」を作っていくとよい。

 勘のいいひとはわかったかもしれないが、オリゲネスやアウグスティヌスの聖書解釈の背景には新プラトン主義がある。アウグスティヌスは愛の博士Doctor Caritasと言われているのだから当然である。私たちは聖書を通してもまた、肉体的な次元を超え、一、善、美である神との合一を目指していきたい。聖書はそのガイドブックと思えばよい。

 

あなたのみことばの深さはまことに驚くべきものです。表面だけを見れば、じっさい子どもだましのように思われます。しかしその深さは素晴らしい!神よ、まったく素晴らしい!(アウグスティヌス『告白』第12巻第14章冒頭より)

諸国の民があなたを称えるように

「神よ、諸国の民があなたを称え、全ての民があなたを称えるように」(詩編67:3)

 

 この間、大学や小学校、病院といった施設についているチャペルでの礼拝において、未信徒が多く参列する典礼はあまり華美にしないほうが良い、という考えがあると耳にした。私には理解できなかった。しかし、こういった考えを持った人々は言う。キリスト教をよく知らない人たちに対してキリスト教の礼拝をやるとき、あんまり華美ではないほうが無難であると。これに対して私は言う。そんな大学の講義や会社の会議と何ら変わらないような儀式をやっても、誰もキリスト教に魅力を感じないし信仰を持たない。そもそもキリスト教への偏見を気にするのなら、むしろ「宗教」としての儀式性を重視し、考え方は違えども仏教や神道と似た性質があると感じられた方がよいではないか。それに対して返ってくる答えはこうである。宣教、というけれども、宣教とは人をクリスチャンにすることではない。宣教とは、環境問題や経済格差、男女不平等といった社会的なissueに対して教会が取り組み、答えを出していくことである。一切理解ができなかった。そこに「宗教」である必要性がてんで見出せなかった。

 冒頭に示した詩編67編の3節のフレーズは、詩編の中では決して珍しい類の言葉ではない。しかし、私はこの一節に、イスラエルの人々の切実な願いを感じ取る。ただ「私たちはあなたのみ名を賛美します」に留まるのではなく、諸国の民が、すべての民があなたを称えるように、なのが私にとって重要である。神の栄光が全地に及ぶことを望み、神の国の繁栄を願う一節と読み取れる。決して個人のご利益的な幸せを願うのではない。むしろ、自分ではなく相手(ここでは神だが)の幸せを思う、philiaがここにはある。ギリシアの神々が賛美される時代を生きたアリストテレスは、住む世界が違いすぎるので神と人間の間にフィリアは存在しないと述べた。しかし、キリスト教では違う。なぜならば、神の子キリストに対し、教会はその花嫁であるからである。花嫁が花婿の幸せを願うこと、これは婚姻において不可欠な友愛である。

 であるとすれば、先述の宣教に関する理解は好ましくないのではないだろうか。ここには決して、「諸国の民が神を称える」ことへの願いは込められていない。確かに大航海時代の植民地における宣教の在り方が現代において相応しいものではない、ということには私も賛成である。重要なのは形式として「キリスト教徒になること」ではない。しかしいつの時代にも変わらないこと、それは信仰を持つことである。そのためには、教会は未信徒に囲まれていようとも、躊躇せずに神のみ言葉を伝えなければならない。聖書と説教、これは確かに必要である。しかし、これに加えてキリスト教の美的な典礼も、宣教という点にあってはとてもよく役割を果たすことも忘れてはならない。祭具や祭服には、一つ一つ象徴的な意味が込められており、教会が大切に育んできた伝統がそこに顕現するのである。そして何より、いかなる場においても花婿が賛美されるとき、花嫁は美しく着飾ることによってその喜びを表現するのは善いことである。

 聖ドミニコの母は、ドミニコを胎内に宿した時、自分のお腹から犬が飛び出し、犬が松明をくわえて全世界に火を放つ夢を見たと言われている。また、イタリアのサン・ティニャツィオ(聖イグナティウス)教会の天井画、《聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光》では、ロヨラがイエスから聖なる光を受け、その光が全地に及んでいる。これらがインスピレーションを受けているのは、次の聖書のみ言葉からである。

「私が地上に来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ12:49)

ここに癒しを読み取ることはできない。そして続くみ言葉の中では平和ではなくむしろ分裂をもたらすために来た」と言っている。イエスの行いは、癒しが全てではない。近年では解放の神学などの影響でけが人や病人を癒す場面が着目されがちであるが、その一方でイエスの言動には厳しさもある。イエスが山上の説教で述べたように、私たちは世の光であり、その光を輝かさなければいけない。そしてその輝きは、道標であると同時に、全地を包む火として放たれなければいけないのである。その意味で、キリスト教徒の少ない場所での礼拝では無難な典礼を、などという優しさは必要ない。むしろ、それは優しさではなく「ヌルさ」である。

「多様性系ファシズム」問題を考える〜トマス・アクィナスの「法論」の視点から〜

  「結局、法って何なんですか?」こんな問いが、この前の連続テレビ小説の中で投げかけられていた。法とは何か、これは法学を学ぶものに限らず、誰でも一生かけて考えられるテーマであろう。しかしトマス・アクィナスの『神学大全』の中で、法論を読んでいくと、「私ならこう答えるかな」と言えるようなヒントは見つかった。

  まず、人間的行為の第一の根源は理性である。これはアリストテレス倫理学でも言われていることである。そして法lexは規則、拘束という性質を持っており、規則は第一の根源に属するので、法は理性に属している。そして、人間的活動の究極目的は共同体の共通善なのだから、法は共通善に秩序づけられている。また、法は為政者によって施行されることによって効力を持っていなければいけないとも述べられている。法の本質における、トマスのこのような考え方を通し、私は、法は人間の理性に基づかなければならず、また万人が幸福になり、その時、その場所において有効であるものなのではないかと考えた。

  昨日、学校において社会化するべきか、個性化するべきかというテーマについての議論があった。社会で生きていくために、規則を守るということは個性を出すことより必要な教育であるという意見がある。その一方で、モラトリアムの時期に個性を育んでいくことが必要だという意見もある。結局、バランスが重要なのは言うまでもない。しかし、規則を逸脱するような個性は個性ではなく、「変わっている人」にしかなり得ない。その集団の規則が気に入らない、例えば学校や会社の髪色についての規定が気に食わないなどと感じる人もいるようだが、そういった「法」は、聖トマス・アクィナスに基づけばその共同体全体の善のため、つまりそこに属する全員の幸福のために制定され、適切に有効なものなのだから守るべきである。

  近年、「多様性の時代」という言葉をよく耳にする。しかし、多様性を重視するために規則や秩序を軽んじる人が増えてきているのではないかと思う。多様性と称して、自分の要求を全て受け入れるようにさせる姿勢は非常に自己中心的である。多様性より秩序、いや、「秩序を乱さない範囲での多様性」こそが現代の私たちが追求していくべきモノであり、市民社会に限らず教会社会においても同様ではないだろうか。

文学のコト

  自己紹介の続きをする。私は、大学では英文学を専攻している。このこともあり、「キリスト者」と自己紹介していながらも、がっつり聖書や神学の話題ではなく、英米文学を中心とした文学について考えつつ、教会の教えについての私の考えをまとめていくつもりである。

  文学にも、様々なものがある。キリスト教文学もあれば、娯楽のために作られた思いっきり世俗的なものもある。しかし、バカバカしいと言って切り捨てるのではなく、多角的に考察していきたい。なぜなら、いかなるものであれ、全て神の造られたものは善く、その筆によって綴られる言葉も善いからである。しかしながら、文学に偏りすぎると真理を曇った目で見ることになる。そこはバランスである。

ブログ始めました

こんにちは。菊地雄大と申します。聖公会の信者で、洗礼名はフランシスコです。現在大学3年生で、学部生がブログでダラダラと喋るなんて生意気だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、自分自身の思考体系を纏め、かつ多くの人に発信していく目的です。もし何か心に響くことがかけていたら嬉しいです。