イエスの「遺言」

 前回は、「掟」について大まかに考えた。今回は、その掟をイエスの遺言として捉え、内容の根幹をなす「愛」についての考えを深めたい。掟を与えたイエスは、真理と善についての対話をし、ついに愛についての対話を始める。徐々に、徐々に自らのイデアとしての存在を明らかにしていくのである。

 イエスの弟子たちとの対話、またはこの世に遺す言葉は、16章からクライマックスに達する。「葡萄の木」の例えでは、人々が自らに繋がること、ロゴスとの合一を説く。そして、合一するうえでの、つまり愛に留まるための掟を弟子たちに与えるのだ。ここに、フィリア、エロース、アガペーが詰まった最高の善、すなわち愛徳caritasの教えという聖書における高まりがある。

 

私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

ヨハネによる福音書15:12‐13)

 

 私が12節に心を動かされるのは、自らの死を前にしてなおも、自分のことではなく世の人々のことを想い続けるイエスの愛を強く感じるためである。イエスは自分の運命をすべて知っていた。今頃ユダは祭司長たちのところへ行き、自分の身柄を売っているであろうことも、当然ながら想定の範囲内である。しかし、それに動じることはない。最後の遺言で残したのは、自分の後、人々がどのように生きるべきなのか、ひたすらその話に尽きる。さらに、13節において、イエスは「友」という言葉を使っている。そしてこのあと、イエスは自らを主人ではなく友であると自らを定義付けている。あの神に等しいイエスが、私たちの友と名乗った!そして「命を捨てる」という表現は、決して大げさな言い回しではなく、十字架の死であると私たちは既に気づく。ここまでくると、私は涙せずにはいられない。神でありながらも人間の友であり、十字架の上で、友のために命を捨てた!そしてこの愛の在り方は、これ以上大きいものはないとするのだ。友の幸福を願うフィリアとして読むことができる。それと同時に『饗宴』に出てくるエロースについての議論で一番初めに出てくるように、「愛する者のために己を犠牲にできる」愛、エロースが存在しているともいえる。アガペーとして無限に注がれる愛でもありながらエロースであるのはおかしいという意見もあるだろう。しかし、それは世間の多くの人が持つ性的な意味にとどまらず、それを越えて「欲求する形の愛」なのである。私たちのために命を捨てるイエスの深い愛は、イエス自身も私たちを救うことを望み、欲求して十字架の身許へと引き寄せる。この三つの愛が共に存在する愛こそが、愛徳caritasであり、すべての徳に勝っているのである。そもそも、受肉した時点で、敢えて神の御子が人の元へいくことを選ぶことにより人類を欲求し近づけることを通しての救済と考えられる。

 イエスの遺言は、私に二人の人物を思い起こさる。一人は架空の人物で、ユゴーの長編小説『レ・ミゼラブル』に登場するジャン・ヴァルジャンである。パンを盗んだ窃盗犯から一転、主の教えに回心し、数奇な運命を辿ったジャンにも死が訪れる。衰弱しきったジャンが遺言に残したのは、自分のことではなかった。自分の名前が残されること、重要指名手配犯のような扱いではなくなるように力が尽くされることなどではない。臨終の最後の瞬間を悟ったジャンが、大切に育てたコゼットと夫マリユスに囁いた遺言は、彼らのためになることだった。内容は、夫婦が幸せに暮らすために必要なこと、マリユスへの「懺悔」、悪党への赦し、そして互いに愛し合うこと。

 

いつまでも深く愛し合いなさい。この世には、「愛し合う」ということのほか、なにもないのだ。(ヴィクトル・ユゴーレ・ミゼラブル』第9篇より)

 

 聖マクシミリアノ・コルベは、ユダヤ人を差別せず、分け隔てなく「友」として接する態度を当局から目を付けられ、収監された。そこで、ポーランドの軍人ガイオニチェクは妻子に会うために命乞いをする。コルベは身代わりになった。それは、身代わりで死ぬことは独身のコルベ神父だからこそできたことだから。確かに間違ってはいない。しかしそれ以上に、誰よりも卓越した勇気を持ち、自らの友のため、命を捨てるというイエスの説く最大の愛を実現した人物として私は心に刻む。

 私がフランシスコという教名を選んだ理由、それは、この箇所が私の最も好きであり、洗礼のための勉強をしていた時期に心に響いたからだ。アッシジ聖フランシスコの祈りは、本当は彼によるものでないことははっきりとわかっている。しかし、これがその理念を端的に表すことに異論はないだろう。自分よりも他人を優先すること、そして「友のために命を捨てた」イエス様の愛に倣うこと。裸のイエスに裸で従ったイエスそのものだ。愛されることよりも愛することを、そして自分の命を捧げ永遠の命を得る、これが私の信条だ。イエスの遺言を常に思い出し、全ての人に謙遜と愛をもって接したい。まだイエスを愛していない人さえも、同じ兄弟として。